事故の再発防止にはコミュニケーションが欠かせません。
まず、私たちは事故調査の段階でインタビューというコミュニケーションを必要としています。
自分の行動が事故を引き起こしてしまったと感じている人の心の動きはインタビューに影響します。自分は被害者だと思っている人の心はどうでしょうか? これらを踏まえてインタビューを行わなければなりません。そして、事故分析の結果出された再発防止策の多くは共有されなければなりません。コミュニケーションがうまくいかなければ人々は再発防止策を理解できず、期待された行動を取ることができないからです。
当研究所ではコミュニケーションの対象者の状況や規模を考慮してコミュニケーションの方法をアドバイスしています。
それでは「Bさんが油で足を滑らせて転倒した」ケースに戻ってインタビューで情報を集めてみましょう。
「A君にはあれだけ○○装置のメンテナンスはしっかりとしておくように言っていたのにあの日の朝、装置の調子が悪くなり異音が出るし、生産速度が落ちて来ていました。夕方には大切なT社への納品が迫っていて一刻の猶予もありませんでした。それで代休で休んでいたA君を呼び出して○○装置を緊急整備するように命令しました。A君は先月のメンテナンスをやっていなかったのだと思います。潤滑油が真っ黒だと言うので早く交換するように指示しました。古い油を入れる缶が必要だから取りに行くと言うので、そばに置いてあったポリバケツではダメかと聞いたらそれでも出来るというので、そうさせました。A君が台車で運んでいた時に、ガタンと音がしたので行ってみると油が少しこぼれていました。A君が掃除をしなければなどと悠長なことを言っていたので、私は新入社員のD君に掃除をさせるからお前は早く潤滑油を取ってこいと命令しました。私は直ぐにD君に電話をしましたが繋がりませんでした。 仕方なく留守電にメッセージを入れておきました。電話を切ると直ぐにT社の購買部長から電話が掛ってきました。『今日の納品は定刻どおりだろうな』という確認の電話でした。私は急いでオフィスに戻り工程表を確認して、この程度の遅れなら取り戻せると判断して、T社に返答しました。 しかし、細かいことは分からないのでスケジュール担当のB君に電話をして○○装置が何時までに復旧すれば納期に間に合うかを聞きました。B君は急いでオフィスに戻って計算してくれると答えてくれました。B君が怪我をしたと聞いたのはそれから暫くしてからです。私がT社への納品が遅れた場合にどう対処するかを考えていた時でした。」
「あの日は会議室でD君に工場のスケジュール方法の理論を教えていました。D君は熱心に話を聞いてくれるのでとても遣り甲斐があります。途中でC課長から携帯に電話が入り、○○装置が止まっているので直ぐにスケジュールを調整して欲しいと言われました。私は○○装置が止まっていたのでは生産できないので何時復旧する予定かを尋ねたところ、逆に何時までに復旧すれば間に合うのかと言われてしまいました。T社への納品は先週の工程異常で遅らせてもらったばかりだったので急を要することでした。とにかく、在庫と合わせてどれだけ出荷できるのかを確認しようと思って、急いで会議室を出ました。廊下を急ぎ足で歩いている時、窪みに足を取られてアッと思ったら床にこぼれていた油に足を突っ込んでいました。次の瞬間、足の向こうに天井が見えました。そして、右の手首に激しい痛みを感じて、息も出来ないくらいでした。誰かが工場長を呼んでくれました。 工場長が119番に連絡して暫くすると救急隊員が来ました。市内の病院に運ばれてX線写真を撮られました。台の上に手を載せるときは激しい痛みを感じました。工場長が家族に連絡をしてくれたそうで、妻が子供をつれて病院に来ていました。骨が二か所で折れているので手術が必要だと言われました。痛み止めの注射をしてもらってからはかなり楽になりました。一昨日、部分麻酔で手術をしてもらいました。昨日の夕方からは熱も下がって、今朝は妻と今後のことを話し合ったりしました。単純骨折と違って治るのに時間が掛りそうです。皆さんにご迷惑を掛けてしまって申し訳ありません。しかし、一体誰があんな所に油を撒いていたのですか? 今後のためにも厳罰にしてもらわないと困ります。」
事故調査チームはBさんからの情報で、床の窪みに足を取られたことを知りました。そこで、現地を調査することにしました。
確かに会議室からBさんのオフィスに向かう廊下には何か所か、床に窪みが出来ていて油がこぼれていた場所より会議室側の窪みは大きく、Aさんが油をこぼしてしまった原因の一つでもありました。また、日中は節電のため廊下の照明を消しているので外から入るととても暗く感じられます。会議室から出た直ぐのところには大きな窓があるのでとても明るいのですが、窪みのある場所は薄暗くて見えにくいことが分かりました。
FTA-2では「Aさんが油をこぼした」ところからFTAを展開してみました。ここでも「人の行動」と「危険との遭遇」がこの好ましくない事象のトリガーを引いたことが分かります。Aさんは本来使うべき蓋付きの容器の代わりに小さな容器を使用していました。Aさんはそのことを認識していましたがC課長の指示があったために「上位者に従っていれば自分に責任はない」と思っていた節があります。これは「判断」のエラーです。Aさんには「その容器では小さいのでこぼれる危険があります」とC課長に訴えるチャンスがありましたが、そうはしませんでした。この先はもっと調べてみないとAさんだけの問題か、組織の体質の問題か分かりません。もし、組織の問題であったとすると安全風土の構築面での対策が必要になりそうです。
C課長については問題が多く見受けられます。人は往々にして強いプレッシャーを受けると安全について忘れてしまいがちです。重要顧客への納品が迫る中、装置のトラブルで焦りが生じて判断を誤ったと思われますが、C課長の安全への意識はどの程度であったのでしょうか? C課長への安全教育が充分であったかどうかは確認の必要があります。C課長が「オイル交換を急いでいた」のは重要顧客に納期の再延期を言い出すのがいやだったという背景があります。もう少しFTAを展開すれば○○装置の潤滑油の交換が予定通りに実施されていなかったことが出てくることは皆さんも容易に想像できると思います。これはこの組織のメンテナンス計画の実施になんらかの欠陥があることを示唆しています。
一方、「台車が床の窪みに落ちた」という危険との遭遇は「床に窪みがあった」という危険な状態と「Aさんが窪みを避け損ねた」という人の行動エラーに展開されました。Aさんは窪みを避けようと正しい判断をしていたにも係わらず、避け損ねたのですから「実行」でのエラーであったことが分かります。一般に実行段階での失敗はトレーニングで防ぐものですが、このケースでは窪みを避けて台車を押すトレーニングをすることは無意味ですね。では、「床に窪みがあった」のはどういうことでしょうか? 床は作られた時は平らだった筈ですが、長く使用する内に損傷が発生していたのでしょう。床の窪みを修理することはメンテナンス計画に入っていたのでしょうか? このFTAでは「メンテナンス計画に欠陥があった」とコメントしています。これはインタビューで引き出した情報ではなく、書類の監査によって見出した事実です。
FTA-3は「誰も掃除をしなかった」からFTAを展開しています。インタビューの結果、床に油がこぼれていることを認識していたのはAさんとC課長だけでしたが、二人とも自分が掃除をするという行動に結びつきませんでした。C課長がAさんではなくD君に掃除をさせようと判断したのは間違いだったとは言えないでしょう。しかし、C課長がそのことをAさんに告げたことでC課長はAさんが掃除をする可能性を否定したことになります。従って、C課長は確実にD君に掃除をさせるか、自ら掃除をするかという責任を負ったわけです。しかし、C課長はこの責任を果たしませんでした。「いずれD君が留守電に気付いて掃除をするだろう」という甘い考えであったことが解ります。もし、T社からの催促がなかったらC課長は自分で掃除をしていたかも知れませんが、実際にはしなかったのです。顧客からのプレッシャーによって判断のエラーを引き起こしてしまった例です。
FTA-4は「Bさんは床の油に気付かなかった」からFTAを展開しています。ここで一つ注意しておくことは、インタビューの結果、FTA-1の「Bさんが床の油を踏んだ」の下にORでぶら下がっていた他の三つの事象は全て否定されて「Bさんは床の油に気付かなかった」だけが残ったということです。「Bさんは床の油に気付かなかった」のは「廊下が暗かった」という危険な状態と「危険を喚起するものがなかった」という危険との遭遇を止めることができなかったことに展開されます。廊下が暗かったというのはBさんにとっては事実です。もう少し明るければ油に気付いていたかもしれません。急に明るい所から暗い所に移ったためにより暗く感じたのかもしれません。改善の余地がありそうです。一方、危険を喚起することが出来たのはC課長だけでした。もし、C課長が床に「油がこぼれています。危険」などのメッセージを置いていたらBさんは油に気付いたかもしれません。C課長にはそうする知識がなかったのかもしれません。
FTAを展開することで色々なことが見えてきました。今回のケースではORの下のオプションが一つに限定されたことで、全てがANDで結ばれる結果になりました。実は「事故調査」は過去の事実を探り出すことなので、「真実は一つ」なのです。ORで結んで「・・・かもしれない」というのは未だ真実が分かっていないということなのです。しかし、全ての事故調査でORを消し去ることができるとは限りません。今回のケースではBさんにインタビューすることで床の油に気付いていなかったことが判明しましたが、運悪くBさんが頭を打って死んでしまっていたらインタビューで確認することは出来ないからです。
さて、全てがANDで結ばれている場合は、どれか一つの事象を否定できれば同一の事故は防ぐことができます。しかし、私たちは同一の事故を防止したいのではなく、同様な事故の再発防止を図りたいのです。そのためには組織の安全風土や安全管理システムなどの欠陥を見つけ出して対策を講ずるべきなのです。