ここまで、「油で足を滑らせ転倒した」ケースを題材にして説明をしてまいりました。そして、FTAを実施する中で様々な疑問が生じ、それらがインタビューで確認すべき事柄であることもご理解頂けたかと思います。
「好ましくない状態の維持」は「好ましくない状態にした」ことと「好ましい状態にしなかった」ことからなることも説明しました。ここで注目すべきことは、「誰がどのようにして好ましい状態に出来た可能性があるか?」です。これは誰かの行動を期待していますが、実際にはその「好ましい行動」は行われませんでした。これは「不作為のエラー」です。従って、可能性のあった誰かが「好ましくない状態」を認識していたか? どう判断したか? どうして行動に結びつかなかったのか? などについて考慮することになります。
一般に「好ましくない状態」を認識していた人は複数いて、それぞれが自ら行動を起こさなかった理由を持っています。多くの人が「好ましくない状態」を認識していながら誰も行動を起こさなかったとすると、それは何を意味しているのでしょうか? この様な場合、私は組織の安全に対する意識レベルに問題がありそうだと感じます。それは組織の安全活動の状況を調べてみると分かります。この場合、一人一人の「不作為」の理由を調べ上げる必要はありません。
次に着目するのは、「好ましくない行動」をしてしまった箇所です。
標準的アプローチの中で、失敗行動は「認知」「判断」「伝達」「実行」のどこかでエラーを起こしたことによると説明しました。ここで考えなければならないことは、この「好ましくない行動」を阻止することができなかったのは何故か? どうであれば阻止できたのか? と言うことです。
「認知のエラーの阻止」
好ましくない行動が認知のエラーによって生じたことが明らかな場合、私たちは認知のエラーが起こらない様に知恵を絞る必要があります。認知が五感によって可能となることは説明した通りですが、視覚による認知を期待している場合、照度が適切であるか? 認知の対象の大きさや色は適切か? 認知に充分な時間があるか? などを考慮して対策を考える必要があります。
同様に聴覚、嗅覚、触覚、味覚についても適切な認知に必要な条件がある筈です。認知のエラーの再発防止には、この条件を整えることと認知するための知識が必要です。家電製品からプラスチックの焦げるような臭いがしたとき、私たちは視覚よりも先に嗅覚で異常を察知します。しかし、知識の無い小さな子供は臭いを感じても内部の過熱を認知することができません。感知したことを判断に結びつけるための知識をどのように会得するのかはそれぞれ方法があると思います。熟練工が1ミクロンの段差を感じて表面を磨き上げるという話を聞くと、それは単なる知識ではなく長年の経験から体得したものであることが分かります。
五感を研ぎ澄ますためには、講義だけではなくトレーニングが重要であることを念頭に再発防止策を考えてみてください。
「判断のエラーの阻止」
正しく認知はしていたのに「判断が正しくなかった」場合、何がその人の判断を狂わせたのかを確認する必要があります。これは最も厄介な対象です。なぜなら、判断のエラーを起した人は罪悪感を持っている為に、正直に話してくれなかったり、感情的になってしまうことがあるからです。本人の供述が取れないまま、周囲の証言や状況から「判断のエラー」があったと断定せざるをえないケースが少なくありません。しかし、判断のエラーを誘発した原因を客観的に把握できれば、再発防止に役立てることが可能です。
多くの場合、判断のエラーは安全意識のレベルが低い場合に発生します。それはその個人の問題であることもあれば、組織全体の問題であることもあります。安全活動や安全教育が不十分な場合には判断のエラーは発生しやすくなります。
判断のエラーを誘発するものに精神的なプレッシャーがあります。焦りがある場合、往々にして人は物事の優先順位を取り違えてしまいます。自分のミスを取り返そうとする心理は誰にでもあるものです。プレッシャーに負けないで判断するには、色々なケースを想定してシミュレーションを行い、何が正しい判断かを日頃からトレーニングしておくのも良い方法です。
体調が宜しくない時、人は判断のエラーを起こしやすくなります。職種によっては体調管理が重要な場合もあります。夜行バスのドライバーが睡眠不足で目を開けたまま思考停止していたら事故が起こるのは必然です。失恋や身内の死なども精神的ダメージが少なくありません。管理者は従業員に思考停止の懸念がある場合には危険な作業をさせないというのも一つの対策です。
「伝達のエラーの阻止」
伝達のエラーは判断から実行までに時間がある場合や、人から人への指令の伝達を必要とする場合に外乱を受けると発生します。問題は外乱は千差万別で何でも外乱になり得るということです。従って、その対策は外乱を除去するのではなく外乱に強い伝達システムを作ることになります。多くの人は自分の行動スケジュールを何かに記録して、定期的にチェックしたりアラーム機能を使って思い出したりしています。これは典型的な伝達エラーの防止対策です。しかし、これだけでは万全ではありません。ポストに手紙を投函することをスケジュール帳に書いてもポストの前を通り過ぎる可能性はなくなりません。機械の組立など、一連の作業を順次実施していく場合にはチェックリストが効果的であることが知られています。
「実行のエラーの阻止」
これは前にも説明しましたが、認知・判断・伝達まで全て順調に進んでいたのに、いよいよ実行という段階でしくじってしまうことがあります。
小さな子供がテーブルの上のコップを取って牛乳を飲もうとした時、手が滑ってコップを落してしまった場合、その子に認知・判断・伝達のエラーはありません。つまり、やろうとしたことに間違いはなかったのです。その子にはコップが大き過ぎたのかもしれません。コップの表面が結露で濡れていたのかもしれません。このような場合に子供を叱ってはいけないと言いますね。そうです、その子は練習する必要があるのです。練習するためには何度もチャレンジする必要がありますが、叱られたらやりたくなくなります。しかし、それが余命いくばくもない老人だったらどうでしょう? 練習させることは無意味ではないでしょうか? 全く同じエラーでも対象となる人によって対策は異なるものです。
「物理的なエラー阻止」
では「認知のエラー」が発生した後では失敗行動を阻止することは不可能でしょうか? 最近は技術の進歩により障害物を検知して衝突を回避する自動車が販売されています。ドライバーが障害物を認知しなくても自動車が止まってくれるとしたら事故を防ぐことが出来そうです。このような物理的な防御が可能であるなら、それは是非検討すべき対策と言えます。これは「判断のエラー」「伝達のエラー」「実行のエラー」のどれにも有効です。多くの化学プラントのホースステーションでは圧縮空気と窒素のラインのホースコネクションが異なるタイプにしてあります。つまり、空気用のホースは窒素に繋がらない設計になっています。これは、物理的につなぎ間違いのエラーを防止するものです。
化学プラントではオペレータの間違いを想定してインターロックシステムで防御しているケースが少なくありません。それはたった一つの間違いでプラントの爆発など重大な事故に繋がっては困るからです。列車のATSも危険を察知してブレーキを掛けてくれる装置として皆さんご存知の通りです。
このように人が間違ってもそのようには出来ない仕組みは事故防止には極めて有効です。しかし、ここには一つの落とし穴があることに注意しなければなりません。これらの安全装置も壊れる可能性がゼロではないと言うことです。これらの設置に際しては必ず「人のエラー」を阻止する別の対策を考えておくべきです。
以上の様にFTAからは色々な再発防止対策の案が出てきますが、それらの中には効果の薄いものや実現出来そうにないものも含まれています。これらは「こんなのダメだ」とその場で切り捨てるのではなく、必ずリストアップしておいてください。今、実現出来そうにないことでも明日は出来るようになるかもしれません。衝突防止機能のついた自動車は以前は夢のようなものでしたが、今は手の届く技術になりました。あまり効果が期待できないと思った案でも状況の変化の中では効果のあるものに変わる可能性もあります。また、別のアイデアの元になることもしばしばです。